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空気を読めない人は2タイプに分かれる
「空気を読めない人(時にKYと略されますね)」は大きくふたつに分けられると思います。一つはその事実に落ち込むタイプで、もう一つは空気を呼んでいる連中を見下すタイプです。
空気を読めない人っていうのは、多分どこかで「常識は常識」、「規則は規則」といった保守的な価値観にどこか疑問を持っているのだと思います。もちろんコミュニケーション能力が原因でKY認定されてしまっている方もいらっしゃるでしょうが、相手の言葉にうなずけなかったり、相手に合わせることが出来なかったりするのは能力やスキルだけでなく精神的な問題も絡んでいると思います。
まず、「空気を読めないという事実に落ち込むタイプ」の人(以下type-a)は、ある種すごく適応力があり、要領のいい人です。このタイプの人の場合、空気が読めないのは自分が人々の輪に溶け込めるだけの自信がなく、どの色にも染まれないからです。こういう人は普段黙々と仕事やコミュニケーションをこなしており、目立たないか、無個性ゆえにいじられたり、ひどいときはいじめられたりします。
しかし、ある集団の中で派閥争いなどドロドロとした対立が生まれた場合、どの色にも染まっていないtype-aの人はその調停役としてなくてはならない存在になります。どちらの価値観に属する人に対しても平等に接することができ、双方の意見をきちんとまとめられるのは対立の当事者でない、集団の空気に染まれていないtype-aの人だけだからです。
type-aの人たちはある特定の状況において社会から必要とされるため存在価値を認められている一方で、組織内で板ばさみにされやすいという問題を持っています。私の身内にはtype-aの人が多いように思えるのですが、会社組織などではいつも板ばさみによるストレスを抱えているようです。しかし、その一方で議論のクッション役として不可欠で、ある種頼られているみたいです。
「空気を呼んでいる連中を見下すタイプ」の人(以下type-b)は、ぶっちゃけ天才かバカかのどちらかです(両方かもしれません)。社会、常識、規則に対して疑問、反感、怒りを感じているこういう人たちは、上手くいけば問題を解決して社会を次のステップへと変える原動力となるでしょう。実際、現代において天才と呼ばれている過去の偉人たちは、その半分以上が過去に先例のない事業や施策をやってのけた人々です。反対されても、時には殺されても、自分の良心や信念に従い正しいと思うことを押し通してきた人々です。
しかし、そういうまっすぐさがいい方向にはたらくか、悪い方向にはたらくかは時を待たなければわかりません。要するに、type-bの人が天才と扱われるか、バカと扱われるかはその場では判断できないのです。よって、要請にあわせて柔軟に思考を変化させる、評価されるまで努力しそして待ち続ける、などといった我慢を強いられます(時に、死ぬまで我慢させられます)。
私の通っている大学は妙に自意識が強い人が多いので、type-bみたいな人には結構会いました。最初はみんなとっつきにくいのですが、話を聞いていると「こいつ、できそう」と思わせるようなところが何か滲み出ている気がします。私はこれを貴重な体験として、彼らがバカ扱いされない、本当の天才として抜け出していける環境を作れるよう、サポートしていければと思っています(我ながら自意識過剰な構想だ……)。
「空気が読めない」ということはどこか否定的なニュアンスで見られやすいのですが、逆にそれを生かせる場は社会を見渡せばいくらでも存在すると思います。type-aの人なら人の話に耳を傾けそしてその人の助けになろうという精神を、type-bの人なら自分の方向性を絶対に見失わないという信念を忘れないようにすれば、たとえ「KY」でも誰かから必要とされる存在にきっとなれるはずです。どうか自分を嫌いにならないでくださいね。
空気を読めない人っていうのは、多分どこかで「常識は常識」、「規則は規則」といった保守的な価値観にどこか疑問を持っているのだと思います。もちろんコミュニケーション能力が原因でKY認定されてしまっている方もいらっしゃるでしょうが、相手の言葉にうなずけなかったり、相手に合わせることが出来なかったりするのは能力やスキルだけでなく精神的な問題も絡んでいると思います。
まず、「空気を読めないという事実に落ち込むタイプ」の人(以下type-a)は、ある種すごく適応力があり、要領のいい人です。このタイプの人の場合、空気が読めないのは自分が人々の輪に溶け込めるだけの自信がなく、どの色にも染まれないからです。こういう人は普段黙々と仕事やコミュニケーションをこなしており、目立たないか、無個性ゆえにいじられたり、ひどいときはいじめられたりします。
しかし、ある集団の中で派閥争いなどドロドロとした対立が生まれた場合、どの色にも染まっていないtype-aの人はその調停役としてなくてはならない存在になります。どちらの価値観に属する人に対しても平等に接することができ、双方の意見をきちんとまとめられるのは対立の当事者でない、集団の空気に染まれていないtype-aの人だけだからです。
type-aの人たちはある特定の状況において社会から必要とされるため存在価値を認められている一方で、組織内で板ばさみにされやすいという問題を持っています。私の身内にはtype-aの人が多いように思えるのですが、会社組織などではいつも板ばさみによるストレスを抱えているようです。しかし、その一方で議論のクッション役として不可欠で、ある種頼られているみたいです。
「空気を呼んでいる連中を見下すタイプ」の人(以下type-b)は、ぶっちゃけ天才かバカかのどちらかです(両方かもしれません)。社会、常識、規則に対して疑問、反感、怒りを感じているこういう人たちは、上手くいけば問題を解決して社会を次のステップへと変える原動力となるでしょう。実際、現代において天才と呼ばれている過去の偉人たちは、その半分以上が過去に先例のない事業や施策をやってのけた人々です。反対されても、時には殺されても、自分の良心や信念に従い正しいと思うことを押し通してきた人々です。
しかし、そういうまっすぐさがいい方向にはたらくか、悪い方向にはたらくかは時を待たなければわかりません。要するに、type-bの人が天才と扱われるか、バカと扱われるかはその場では判断できないのです。よって、要請にあわせて柔軟に思考を変化させる、評価されるまで努力しそして待ち続ける、などといった我慢を強いられます(時に、死ぬまで我慢させられます)。
私の通っている大学は妙に自意識が強い人が多いので、type-bみたいな人には結構会いました。最初はみんなとっつきにくいのですが、話を聞いていると「こいつ、できそう」と思わせるようなところが何か滲み出ている気がします。私はこれを貴重な体験として、彼らがバカ扱いされない、本当の天才として抜け出していける環境を作れるよう、サポートしていければと思っています(我ながら自意識過剰な構想だ……)。
「空気が読めない」ということはどこか否定的なニュアンスで見られやすいのですが、逆にそれを生かせる場は社会を見渡せばいくらでも存在すると思います。type-aの人なら人の話に耳を傾けそしてその人の助けになろうという精神を、type-bの人なら自分の方向性を絶対に見失わないという信念を忘れないようにすれば、たとえ「KY」でも誰かから必要とされる存在にきっとなれるはずです。どうか自分を嫌いにならないでくださいね。
「知る覚悟」
・インターネットで情報収集するときに必要なこと(発信元:304 Not Modified様)
ひねくれた考え方かもしれませんが、私はこのエントリを読んで、「インターネットで情報収集をするなら、ノイズを許容していったほうがいい」という提案の向こう側に興味を持ちました。実際にノイズを許容することの難しさについて、です。
まず、それまでノイズだと判断した(あるいはそう思い込んでいた)情報を受け入れる態度を持つこと自体、自分が今まで持っていた思考様式を一度自分自身で批判的に見つめなおすという一種の自己否定です(ただ、これは少し大げさに誇張しすぎている話かもしれません)。
次に、ノイズを許容し新たに迎え入れた情報を受け入れるキャパシティを創造しなければならないという問題が待ち受けています。私は最初インターネットを使い始めた頃、その情報の多さに頭がパンクしてしてしまいました。よほど情報を整理する力なり脳内キャパシティの広さなりが備わっていない限り、現実にノイズを許容していくことは難しいと思います。
最後に、ノイズを許容することで新たに入手した情報を適切に利用する能力が求められます。物事について理解しようとするのなら、その存在を認め、受け入れる必要があります。最初から排除を目的に理解を深めようとするれば、大抵無意味な同語反復に終わります。ノイズから情報へ、情報から自分の糧へと精製していくには、それだけ経験や教養といったもので培われた揺るぎない力が必要となるのです。
以上、ノイズを許容することの難しさについて長々と述べました。しかし、自分の議論をさらにステップアップさせたいという願望があるのなら、自分にとって都合の悪い上をすべて切り捨てているようではいけません。地に足が着いてない、宙吊りの思考で終わってしまいます。さらなる理解、さらなる向上を目指すうえでなくてはならないもの、それは「我慢」と「覚悟」だと思います。「我慢」についてはまた別の機会に譲ることとし、今回は「覚悟」について取り上げます。
現在、たとえ法律で明確に保障されていると知らなくとも、私たちには知る権利があります。というかぶっちゃけ、「知る権利」なんてたいそうな言葉を使う必要性自体ほとんどありません。知りたくない情報でもインターネットを繋いでいればいくらでも知ってしまいますし、知られたくない情報でもWinnyを介してどんどん流れ出ている現状なのですから。「情報リテラシー」などという言葉が本格的に議論の的として扱われるようになったのは、ブロードバンド技術の進歩でお茶の間と世界が交わるようになってからでしょう。
今私たちが目を向けなけれならないのは知るという行為のその先へと変わってきています。情報を知って上で適切な行動が取れるかどうか。これは「情報リテラシー」という能力的な観点で語られることが多い概念ですが、情報の利用・活用に責任が伴うのだとしたら、その責任は情報を知った時点ですでにそれを手に入れた個人へと存在しており、情報を知るにはその責任を負う覚悟が必要だと思います。
もちろん、知るという行為に対する責任を果たす覚悟を裏付けるものとして、自信なり能力なりが必要であろうことはわかります。しかし、どんなに背伸びをしようがどんなに工夫をしようが今の自分自身で情報についてあれこれ判断しなければならないことには変わりないわけで、最終的には情報を知ろうとする人に「知る覚悟」があるかどうか次第だと思います。
例えば、企業の経営者が粉飾決算をしようとすることがあるのは、知ってしまった悪い情報をもみ消したいからでしょう。たとえ悪い情報であっても知る覚悟がないのなら、最初から知ろうとしなければいいのです。そして、最初から知る気がないのなら、経営者になるべきではありません。
また、いろいろなブログを見ていると本文についてきちんと言及することなくただ自分の主張を並べ立ててブロガーを批判しているだけのコメントを見ることがありますが、記事を読んだ上での批判をする気がないのなら最初から読むなと言いたくなります。これも、記事を読む前から読者に情報を受け入れる覚悟がなかったからでしょう。
昔「スルー力」なる概念が議論を巻き起こしていました。今はある程度情報をスルーした上で残った情報をどう利用するかが重要になってきていると思います。スルーはある程度「我慢」の精神が必要でした。情報を有効に活用する資質があるかどうかも、ある程度「覚悟」の精神が関与しているものだと思います。
元記事からかなり脱線してしまいました。ニュースサイトを運営しているまなめさんは、多分私なんかより相当覚悟を決めているところがあり、だからこそ「ノイズを許容しなさい」とその行為の難しさを知った上で言い切れたんだと思います。だって、ニュースサイトってひとたび間違った判断を行えばリンク先を炎上させかねないわけじゃないですか。それが自分にも降りかかってくると考えると……、私にはまだまだ覚悟が足りませんね。
ひねくれた考え方かもしれませんが、私はこのエントリを読んで、「インターネットで情報収集をするなら、ノイズを許容していったほうがいい」という提案の向こう側に興味を持ちました。実際にノイズを許容することの難しさについて、です。
まず、それまでノイズだと判断した(あるいはそう思い込んでいた)情報を受け入れる態度を持つこと自体、自分が今まで持っていた思考様式を一度自分自身で批判的に見つめなおすという一種の自己否定です(ただ、これは少し大げさに誇張しすぎている話かもしれません)。
次に、ノイズを許容し新たに迎え入れた情報を受け入れるキャパシティを創造しなければならないという問題が待ち受けています。私は最初インターネットを使い始めた頃、その情報の多さに頭がパンクしてしてしまいました。よほど情報を整理する力なり脳内キャパシティの広さなりが備わっていない限り、現実にノイズを許容していくことは難しいと思います。
最後に、ノイズを許容することで新たに入手した情報を適切に利用する能力が求められます。物事について理解しようとするのなら、その存在を認め、受け入れる必要があります。最初から排除を目的に理解を深めようとするれば、大抵無意味な同語反復に終わります。ノイズから情報へ、情報から自分の糧へと精製していくには、それだけ経験や教養といったもので培われた揺るぎない力が必要となるのです。
以上、ノイズを許容することの難しさについて長々と述べました。しかし、自分の議論をさらにステップアップさせたいという願望があるのなら、自分にとって都合の悪い上をすべて切り捨てているようではいけません。地に足が着いてない、宙吊りの思考で終わってしまいます。さらなる理解、さらなる向上を目指すうえでなくてはならないもの、それは「我慢」と「覚悟」だと思います。「我慢」についてはまた別の機会に譲ることとし、今回は「覚悟」について取り上げます。
現在、たとえ法律で明確に保障されていると知らなくとも、私たちには知る権利があります。というかぶっちゃけ、「知る権利」なんてたいそうな言葉を使う必要性自体ほとんどありません。知りたくない情報でもインターネットを繋いでいればいくらでも知ってしまいますし、知られたくない情報でもWinnyを介してどんどん流れ出ている現状なのですから。「情報リテラシー」などという言葉が本格的に議論の的として扱われるようになったのは、ブロードバンド技術の進歩でお茶の間と世界が交わるようになってからでしょう。
今私たちが目を向けなけれならないのは知るという行為のその先へと変わってきています。情報を知って上で適切な行動が取れるかどうか。これは「情報リテラシー」という能力的な観点で語られることが多い概念ですが、情報の利用・活用に責任が伴うのだとしたら、その責任は情報を知った時点ですでにそれを手に入れた個人へと存在しており、情報を知るにはその責任を負う覚悟が必要だと思います。
もちろん、知るという行為に対する責任を果たす覚悟を裏付けるものとして、自信なり能力なりが必要であろうことはわかります。しかし、どんなに背伸びをしようがどんなに工夫をしようが今の自分自身で情報についてあれこれ判断しなければならないことには変わりないわけで、最終的には情報を知ろうとする人に「知る覚悟」があるかどうか次第だと思います。
例えば、企業の経営者が粉飾決算をしようとすることがあるのは、知ってしまった悪い情報をもみ消したいからでしょう。たとえ悪い情報であっても知る覚悟がないのなら、最初から知ろうとしなければいいのです。そして、最初から知る気がないのなら、経営者になるべきではありません。
また、いろいろなブログを見ていると本文についてきちんと言及することなくただ自分の主張を並べ立ててブロガーを批判しているだけのコメントを見ることがありますが、記事を読んだ上での批判をする気がないのなら最初から読むなと言いたくなります。これも、記事を読む前から読者に情報を受け入れる覚悟がなかったからでしょう。
昔「スルー力」なる概念が議論を巻き起こしていました。今はある程度情報をスルーした上で残った情報をどう利用するかが重要になってきていると思います。スルーはある程度「我慢」の精神が必要でした。情報を有効に活用する資質があるかどうかも、ある程度「覚悟」の精神が関与しているものだと思います。
元記事からかなり脱線してしまいました。ニュースサイトを運営しているまなめさんは、多分私なんかより相当覚悟を決めているところがあり、だからこそ「ノイズを許容しなさい」とその行為の難しさを知った上で言い切れたんだと思います。だって、ニュースサイトってひとたび間違った判断を行えばリンク先を炎上させかねないわけじゃないですか。それが自分にも降りかかってくると考えると……、私にはまだまだ覚悟が足りませんね。
「上から目線」はお嫌いですか?
私もつい最近までは「上から目線」が大嫌いでした。「アンタ何様」としか思えないですもの。でも、自分も「上から目線」している人を「上から目線」で批判。以下無限ループ。
しかし、今は「上から目線」をある程度受け入れられるようになってきたつもりです。その理由は、就職活動をするうえで自分に対する客観的な評価を下してもらい、適正や今の自分の問題点について考えるためです。同じ立場に立って人を評価しようと思えば、その人と長く時を同じくするか、その人の話を相当よく聞く必要があります。かといって、人に自分のことを聞く上でこっちが上から目線になってしまってはただの傲慢です(なのでいわば就活の「道具」として人の上から目線を受け入れているだけで、ほんとのところは今でも上から目線が大嫌いです)。
ある人物や物事について客観的に語る際は、その対象について相当調べ上げる必要があります。そして、それはプロフェッショナルではない一般ピーポーに出来る業ではありません。よって、専門家でない人が特定の人物や物事について語る際は、どうしても主観性の入り込む余地が大きくなり、上から目線になりがちです。
「だったら、素人はブログとかで好き勝手に発言するな」、そう思われるかもしれません。しかし、政治の専門家ではない一般ピーポーとしての国民が選挙や世論を通じて政治にある種評価や主張を行うことで、民主主義は保障されています。素人も素人なりに経験を積み、考えているのですから自分がわかっている範囲で物事を語る権利はあるでしょう。また、そもそも主観性のない、客観的な事実だけが認められるのなら小節もエッセイも評論も消えうせ数字と記号だけが支配する世界になってしまいます。よほどの数学マニアでない限り住み心地が悪いことは目に見えています。
さらに、他の人が読んだ文章を読む際には、その人に読ませてもらっている、何かを教えてもらっているという意識をどこかでは持っておいたほうがいいと思います。知識を吸収したり物事を理解したりするには、無意識であってもそれを受け入れ、認める覚悟が必要です。極端な話ですが、「上から目線」を嫌って他の人の意見に耳を貸さない場合、自分の主張や考え方が他の考え方からはなれていき宙に浮いてしまう可能性があります。
なんかわけのわからない記事になってしまいましたが、要するに主観的に人物や物事を評価、評論、批判する場合はどうしても上から目線という前提から逃れ去ることはできない、と言いたいだけなんです。まぁ、ろくに対象について調べずに上から目線叩いている人々については論外だと思っても問題はないでしょうが。
しかし、今は「上から目線」をある程度受け入れられるようになってきたつもりです。その理由は、就職活動をするうえで自分に対する客観的な評価を下してもらい、適正や今の自分の問題点について考えるためです。同じ立場に立って人を評価しようと思えば、その人と長く時を同じくするか、その人の話を相当よく聞く必要があります。かといって、人に自分のことを聞く上でこっちが上から目線になってしまってはただの傲慢です(なのでいわば就活の「道具」として人の上から目線を受け入れているだけで、ほんとのところは今でも上から目線が大嫌いです)。
ある人物や物事について客観的に語る際は、その対象について相当調べ上げる必要があります。そして、それはプロフェッショナルではない一般ピーポーに出来る業ではありません。よって、専門家でない人が特定の人物や物事について語る際は、どうしても主観性の入り込む余地が大きくなり、上から目線になりがちです。
「だったら、素人はブログとかで好き勝手に発言するな」、そう思われるかもしれません。しかし、政治の専門家ではない一般ピーポーとしての国民が選挙や世論を通じて政治にある種評価や主張を行うことで、民主主義は保障されています。素人も素人なりに経験を積み、考えているのですから自分がわかっている範囲で物事を語る権利はあるでしょう。また、そもそも主観性のない、客観的な事実だけが認められるのなら小節もエッセイも評論も消えうせ数字と記号だけが支配する世界になってしまいます。よほどの数学マニアでない限り住み心地が悪いことは目に見えています。
さらに、他の人が読んだ文章を読む際には、その人に読ませてもらっている、何かを教えてもらっているという意識をどこかでは持っておいたほうがいいと思います。知識を吸収したり物事を理解したりするには、無意識であってもそれを受け入れ、認める覚悟が必要です。極端な話ですが、「上から目線」を嫌って他の人の意見に耳を貸さない場合、自分の主張や考え方が他の考え方からはなれていき宙に浮いてしまう可能性があります。
なんかわけのわからない記事になってしまいましたが、要するに主観的に人物や物事を評価、評論、批判する場合はどうしても上から目線という前提から逃れ去ることはできない、と言いたいだけなんです。まぁ、ろくに対象について調べずに上から目線叩いている人々については論外だと思っても問題はないでしょうが。
質問すらしない人々
ネットでは「わからないことをすれば調べもせずすぐ質問をして、答えてもらうのが当然」と思っている人たちがしょっちゅう嫌われていますが、私の周囲ではある種これ以上に困った考えの人たちがいます。それは、「質問、要求をしなくとも、相手は自分の意図を把握している」という「質問すらしない人々」です。
こういう人たちについて初めて自覚させられたのは、友人の愚痴を聞いているときでした。友人A曰く、その友人Bは大学内でサークルを企画してやりたいことがあるみたいなのですが、自分から活動場所を確保したり、サークルの申請を行ったりという行動をせず、そういうことに詳しい(とBが勝手に思い込んでいる)Aに全部やってもらうのを待っているようなのです。別にBはAに行動を急かしているわけではないようなのですが、逆にAはBの何かやりたいと言い出しつつ具体的な行動を取らないこのBの態度が気に入らないようなのです。「汚れ役になろうとしないのが腹立つ」、だとか。
自分にもそういうところはあります。「とりあえず何か言えば相手が意図を汲み取ってくれる」とか、「自分がやらなくても誰かがやってくれる」、とか。私の場合、自信のなさゆえに具体的でストレートな物言いが出来なくなっていること、逆に相手の立場になって物事を考え、相手が何を欲しているかまで頭を回すことが出来ていないことが原因になっています。Bに関していえば、「空気を読む」ことをAに無言の圧力で要求していることが問題でしょう。「質問すらしない人々」になっている理由は様々だと思います。
ただ、自分の意図を言葉にすることすらせずに相手がわかってくれると期待して行動を待つという傲慢さの根は、「わからないことをすれば調べもせずすぐ質問をして、答えてもらうのが当然」と思っている人たちと同様、自分から動こうという態度が乏しいことに起因していると思います。あと、「質問すらしない人々」に限って、後で問題が起こったときに自分が責任を取ったりせず、擦り付け合いになったりナアナアで終わったりすることが多いように思えます。
口うるさく傲慢な人は私も嫌いです。しかし、直接口にはしないけれども態度やしぐさで文句を言い、相手が動くのをただ待つだけなのはもっと傲慢で嫌だと思います。
こういう人たちについて初めて自覚させられたのは、友人の愚痴を聞いているときでした。友人A曰く、その友人Bは大学内でサークルを企画してやりたいことがあるみたいなのですが、自分から活動場所を確保したり、サークルの申請を行ったりという行動をせず、そういうことに詳しい(とBが勝手に思い込んでいる)Aに全部やってもらうのを待っているようなのです。別にBはAに行動を急かしているわけではないようなのですが、逆にAはBの何かやりたいと言い出しつつ具体的な行動を取らないこのBの態度が気に入らないようなのです。「汚れ役になろうとしないのが腹立つ」、だとか。
自分にもそういうところはあります。「とりあえず何か言えば相手が意図を汲み取ってくれる」とか、「自分がやらなくても誰かがやってくれる」、とか。私の場合、自信のなさゆえに具体的でストレートな物言いが出来なくなっていること、逆に相手の立場になって物事を考え、相手が何を欲しているかまで頭を回すことが出来ていないことが原因になっています。Bに関していえば、「空気を読む」ことをAに無言の圧力で要求していることが問題でしょう。「質問すらしない人々」になっている理由は様々だと思います。
ただ、自分の意図を言葉にすることすらせずに相手がわかってくれると期待して行動を待つという傲慢さの根は、「わからないことをすれば調べもせずすぐ質問をして、答えてもらうのが当然」と思っている人たちと同様、自分から動こうという態度が乏しいことに起因していると思います。あと、「質問すらしない人々」に限って、後で問題が起こったときに自分が責任を取ったりせず、擦り付け合いになったりナアナアで終わったりすることが多いように思えます。
口うるさく傲慢な人は私も嫌いです。しかし、直接口にはしないけれども態度やしぐさで文句を言い、相手が動くのをただ待つだけなのはもっと傲慢で嫌だと思います。
ブログを楽しくするコツ?
すごく個人的な話ですが、空気が読めず礼儀のなっていない私は何か言い出しても「お前が言うな」とか「お前がそんなことを言うとは意外だ」とか言われて先入観や偏見なしに話しを聞いてもらえません。人柄や性格、言動や行動から滲み出てくる人間性がどこか私に不信感や説得力のなさを付きまとわせているように思えます。
だから、先入観や偏見なしに、「本当の」自分を見てほしいという欲求が私を突き動かしブログを書くのに至っています。しかし、教養に乏しく表現力がなく、勤勉さも足りない私はやはりインターネットでも信頼を得るには至っていません。正直、こんな状況でブログを書いていても言いたいことをぶちまけてすっきりしている部分はありますがあまり楽しくありません。
前置きが長くなりましたが、「ブログを楽しくするにはどうすればいいか」、「ブログで後悔したり辛い思いをしたりしないようにするにはどうしたらいいか」、そして最終的には「ブログを人生を楽しくするためのツールとして機能させる」ことを考えてみたいと思います。
・とにかく書いてみる
「自分より優れた意見を言える人はたくさんいる」、「自分の意見と他の人の意見がかぶっているかもしれない」、「もしかすると自分の言葉が他の人を傷つけてしまうかもしれない」、そう思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そういうことはあまり気にする必要はありませんし、そういうことに気を配ってブログを書けばまず問題は起こりません。過去ブログに書かれた記事や優れた記事は検索エンジンやソーシャルブックマークを活用すれば見つけ出せますので、他者とは差別化をはかったブログを構築するチャンスはいくらでもあると思いますし、どういう意見やブログが非難の的になりやすいかも過去ログを参照していればおのずと見えてくるはずです。
まずは自分で記事を仕上げるのに必要なソースを探し出し、自分の言葉、考え方でとりあえず何か書いてみましょう。あなたの記事が目に留まった方の何人かは必ず共感してくれるはずです。
・きちんと調べて書く
上でも少し触れましたが、きちんと調べて書くことが重要です。インターネットでは検索エンジンを利用すればいろいろなことがわかります。嘘を書いても見破られますし、確証ののないデータを信用しない人はネット住人の中に相当多いです。満足するまで調べて、それから記事の作成に移りましょう。自分の興味があるジャンルなら、調べることもそんなに苦ではないはずです。
・無理はしない
自分が興味のないことまで首を突っ込んで発言したり、学術論文のように細かな考察のなされている文章を書く必要性はありません。「スルー」も一つの手段ですし、「楽しい」と感じる領域以上のd力をブログにかけなくとも、雑誌の巻末や新聞の片隅にあるコラム程度で自分の書きたいように書いたのでいいのです。アルファブロガーと呼ばれている方々や大手ブロガーの方々の中には趣味の範疇を超えているかのような記述もありますが、彼らも自分の知識とエネルギーをフルに活用しているだけであって、無理をして書いているわけではないはずです(逆に趣味でアレだけのクオリティを量産できるのはすごいことなんですけどね)。まずは楽しめるかどうか、そこが重要です。言いたいことだけ、言いたいだけ言っていいのです。
・ブログで後悔しないためには?
ブログを楽しいと感じて更新できている間は本当に幸せです。言葉と言葉のコミュニケーションでインターネットなしでは知りえなかった情報や人々と出会い、意見や考えを共有できるのは技術様々だと思います。
しかし、ブログをやっていることがいつも楽しいとは限りません。ネタがなくなったり、ネガティブコメントばかりが目に付くようになってモチベーションが低下したり、方針転換を余儀なくされたり……。問題は様々です。
こういうときヤケになったりすぐブログを閉鎖したりするのはそれまでブログを通じて築いてきたものをすべて崩してしまうよう物なのであまりいいとは思えません。「ブログから距離を置いてみる」、というのも一つの手段でしょう。自分のブログと向き合うだけでは見えてなかった「自分」という存在を再発見したりブログに対して新たなビジョンを見出していくことで新しい楽しみを作ることが出来るかもしれません。
もう一つの手段としては、他の人が書いたブログをいろいろ読んでみるといいと思います。これならタダで、、自宅で出来ますし、同じブログをやるものとして共感できるような記事を発見し、スランプを脱出する糸口が見つかるかもしれません。この際、自分が興味のあるジャンルだけではなく、広く様々なブログを読んでみるといいと思います。せっかくインターネットと言う便利な機能があるのですから、これを広く利用しない手はありません。
こうしていろいろ考えた末にブログを閉鎖すると言う結論に至る可能性はあるかもしれませんが、熟慮に熟慮を重ねた末なら後悔はなく、きっと美しい思い出としてその後残っていくことでしょう。とにかく早まらないこと、これはブログを炎上させないためにも重要です。
・ブログを人生を楽しくするためのツールとして機能させる
その最大のコツは、「人と人とのつながりを大切にする」、この一言に尽きると思います。304 Not Modifiedを書かれているまなめさんはインターネット上で出会い、自分を育んでくれた人々に対する感謝と尊敬の意の大切さを強調し、見る人にインターネットの楽しさや可能性を伝道しているように思えます。リンク一つで他の人と何らかのつながりあいを持てるインターネットという世界。ひとつひとつの出会いを大切にし、ともに楽しめるよう感謝と尊敬の気持ちは大切にしていきたいところですね。
雑多で長いエントリになってしまいましたが、これが自分なりにブログを楽しむ方法について考えてみた結果です。
だから、先入観や偏見なしに、「本当の」自分を見てほしいという欲求が私を突き動かしブログを書くのに至っています。しかし、教養に乏しく表現力がなく、勤勉さも足りない私はやはりインターネットでも信頼を得るには至っていません。正直、こんな状況でブログを書いていても言いたいことをぶちまけてすっきりしている部分はありますがあまり楽しくありません。
前置きが長くなりましたが、「ブログを楽しくするにはどうすればいいか」、「ブログで後悔したり辛い思いをしたりしないようにするにはどうしたらいいか」、そして最終的には「ブログを人生を楽しくするためのツールとして機能させる」ことを考えてみたいと思います。
・とにかく書いてみる
「自分より優れた意見を言える人はたくさんいる」、「自分の意見と他の人の意見がかぶっているかもしれない」、「もしかすると自分の言葉が他の人を傷つけてしまうかもしれない」、そう思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そういうことはあまり気にする必要はありませんし、そういうことに気を配ってブログを書けばまず問題は起こりません。過去ブログに書かれた記事や優れた記事は検索エンジンやソーシャルブックマークを活用すれば見つけ出せますので、他者とは差別化をはかったブログを構築するチャンスはいくらでもあると思いますし、どういう意見やブログが非難の的になりやすいかも過去ログを参照していればおのずと見えてくるはずです。
まずは自分で記事を仕上げるのに必要なソースを探し出し、自分の言葉、考え方でとりあえず何か書いてみましょう。あなたの記事が目に留まった方の何人かは必ず共感してくれるはずです。
・きちんと調べて書く
上でも少し触れましたが、きちんと調べて書くことが重要です。インターネットでは検索エンジンを利用すればいろいろなことがわかります。嘘を書いても見破られますし、確証ののないデータを信用しない人はネット住人の中に相当多いです。満足するまで調べて、それから記事の作成に移りましょう。自分の興味があるジャンルなら、調べることもそんなに苦ではないはずです。
・無理はしない
自分が興味のないことまで首を突っ込んで発言したり、学術論文のように細かな考察のなされている文章を書く必要性はありません。「スルー」も一つの手段ですし、「楽しい」と感じる領域以上のd力をブログにかけなくとも、雑誌の巻末や新聞の片隅にあるコラム程度で自分の書きたいように書いたのでいいのです。アルファブロガーと呼ばれている方々や大手ブロガーの方々の中には趣味の範疇を超えているかのような記述もありますが、彼らも自分の知識とエネルギーをフルに活用しているだけであって、無理をして書いているわけではないはずです(逆に趣味でアレだけのクオリティを量産できるのはすごいことなんですけどね)。まずは楽しめるかどうか、そこが重要です。言いたいことだけ、言いたいだけ言っていいのです。
・ブログで後悔しないためには?
ブログを楽しいと感じて更新できている間は本当に幸せです。言葉と言葉のコミュニケーションでインターネットなしでは知りえなかった情報や人々と出会い、意見や考えを共有できるのは技術様々だと思います。
しかし、ブログをやっていることがいつも楽しいとは限りません。ネタがなくなったり、ネガティブコメントばかりが目に付くようになってモチベーションが低下したり、方針転換を余儀なくされたり……。問題は様々です。
こういうときヤケになったりすぐブログを閉鎖したりするのはそれまでブログを通じて築いてきたものをすべて崩してしまうよう物なのであまりいいとは思えません。「ブログから距離を置いてみる」、というのも一つの手段でしょう。自分のブログと向き合うだけでは見えてなかった「自分」という存在を再発見したりブログに対して新たなビジョンを見出していくことで新しい楽しみを作ることが出来るかもしれません。
もう一つの手段としては、他の人が書いたブログをいろいろ読んでみるといいと思います。これならタダで、、自宅で出来ますし、同じブログをやるものとして共感できるような記事を発見し、スランプを脱出する糸口が見つかるかもしれません。この際、自分が興味のあるジャンルだけではなく、広く様々なブログを読んでみるといいと思います。せっかくインターネットと言う便利な機能があるのですから、これを広く利用しない手はありません。
こうしていろいろ考えた末にブログを閉鎖すると言う結論に至る可能性はあるかもしれませんが、熟慮に熟慮を重ねた末なら後悔はなく、きっと美しい思い出としてその後残っていくことでしょう。とにかく早まらないこと、これはブログを炎上させないためにも重要です。
・ブログを人生を楽しくするためのツールとして機能させる
その最大のコツは、「人と人とのつながりを大切にする」、この一言に尽きると思います。304 Not Modifiedを書かれているまなめさんはインターネット上で出会い、自分を育んでくれた人々に対する感謝と尊敬の意の大切さを強調し、見る人にインターネットの楽しさや可能性を伝道しているように思えます。リンク一つで他の人と何らかのつながりあいを持てるインターネットという世界。ひとつひとつの出会いを大切にし、ともに楽しめるよう感謝と尊敬の気持ちは大切にしていきたいところですね。
雑多で長いエントリになってしまいましたが、これが自分なりにブログを楽しむ方法について考えてみた結果です。








